教員免許更新制について

                                  山口 和孝                                   08/09/29

はじめに

 国会審議もほとんどないままに2007年6月に導入されることが決まり、今年度、全国88大学734の講座が予備講習(試行) として始まる教員免許更新制だが(文科省は、これだけでは少ないと、予備講習の二次申請を設定して追加を認めた)、こ れには、法制度はもとより数え切れないくらいの矛盾・問題点・疑問が存在する。  しかしながら、教育現場の先生たちの関心のありようは、「私、予備講習あたった。ラッキー」、「先着順申し込みだと いうので、朝一番に郵便局にいったのに、落とされた・・・。抗議の電話したんだけれど、大学の対応が不十分・・・・」 、とか「私は、一年違いで年齢的にはずれた、よかった」いったレベルのとらえかたがもっぱらだ。  免許更新制度は、すべての教員の身分に深刻に関わる大きな問題でありながら、多忙極まる教師の関心は、更新講習受講 対象者年齢に該当しているかはずれたかの一喜一憂レベルにとどまっているのが実情だろう。地域によっては、教育委員会 からの説明もなく、組合情報も届かず、不安だけを抱えている人たちも多いに違いない。この問題は、すべての教師にとっ て、「私はどうなる?」という共通の課題となりうるものであり、それゆえに、日本全国の教師の未来に関わる重大な問題 として職員室で語り合えるテーマだ。  しかしながら、文科省サイドは、こんな重大な問題について、全国の教師の手元に届くような形での詳しい説明をなす作 業をしていないし、教育委員会によっては、ほとんど説明をやっていない。それだけに、教育現場の不安は広がるばかりだ。 文科省は、すべての情報は、ネット上に公開されているとする。確かにその通りなのだが、そこにすでに情報格差が生じて いる。日常的にコンピューターをチェックする習慣のない人には、公開されている情報は届かない。ちなみに、コンピュー ターを立ち上げて、検索サイトに「教員免許更新制」ないし「教員免許更新講習」というキーワードを打ち込んでみるとよ い。すべての教員の身分に重大に関わる問題であり、多くの教員が動揺していることがらなのに、そのキーワードでヒット する情報には、教員運動が的確に発信するものはない。  さらに、免許更新講習は幼稚園の先生たちも受講対象なのだが、公立よりも私立が圧倒的に多い幼稚園に、情報はほとん ど届いていない。教育委員会の管轄外にあり、教員組合運動も別だからだ。

一 またまた、同じような研修が増える

 教員免許更新は、教育改革国民会議が「最終報告」(2000年12月22日)で提案をなしたのが発端であった。しかし、中教 審は、これには慎重な態度をとり、「最終報告」(2002年2月)では導入を見送ったものだ。「最終報告』では、導入見送り の理由として多くをあげているのだが、そのいずれもが、今回の制度の批判点にそのまま当てはまるので紹介しておこう。 すなわち、@教員免許更新制の目的は、教員の適格性を審査するのか、それとも専門性の維持・向上なのか、A免許状保有者 全員を対象とするのか、現職教員のみであるのか、B現行の教員研修との整合性をどうはかるのか、C教員を評価する適切 な基準は設定できるのか、D大きな制度改革に見合うだけの効果を確実に得られるのか、E免許が更新されなかった場合の 身分・処遇はどうなるのか、F医師・看護師・弁護士などの終身有効資格の他に更新制をとっている資格制度はどのようなも のがあるか、である。  しかし、教育改革論議のなかでの教員バッシングに抵抗しきれず、免許更新制度の見送りと引き換えに導入されたのが、 10年経験者研修であった(教育公務員特例法の一部改正、二〇〇二年)。つまり、これは、教員免許更新制度を導入しない 代わりの措置であったのだが、今、迫られている教員免許更新制度においては、教職10年経験者研修制度はそのまま法定事 項として継続されるので、教師は、資格認定に関わる免許更新講習と現職経験者研修の双方を課せられることになった。10 年研修の「10年目」は採用された年度を起点とするのだが、この10年目と免許更新修了確認期限の時期が、一致する人は少 ない。教員運動のなかには、現職経験者研修と免許更新講習を「重ねる」ことを教育委員会に要求することを重点に掲げて いるところもあるが、問題の本質、あるいは、条件闘争の中核的な焦点は、そこにはない。たしかに、「重ね」れば、人に よっては「多少」負担は軽減する。しかし、「重なる」チャンスのある人はごく少数で、メリットを得れる人は少ない。

二 法の不利益遡及適用という無理

 教員免許の更新制度を規定した法律は、来年の2009年4月1日に施行される。したがって、2009年4月1日以降に交付される 免許状には、10年間の有効期限が記されることになる。文科省は、こうした期限付免許状を「新免許状」としている。だか ら、近代法の運用理念からすれば、最初の免許更新講習受講者は2019年度から発生することになる。しかしながら、この法 の運用では、2009年3月31日までに免許状を所有するもの、すなわち、今、免許状をもっているすべての人たち、これを「旧 免許状」所有者と呼ぶのだが、この人たちも免許更新講習を修了しなければならないとしている。  「旧免許状」は、そもそも、有効期限が設定されない「生涯有効免許」として交付されたものだ。なのに、文科省は、こう 説明する。旧免許状は、「引き続き有効期限の定めのないものとしますが、修了確認期限までに更新講習の修了認定を受けな かった場合には、免許状はその効力を失います」と。大学でとった単位まで消滅するわけではないからと。このロジックを、 理解できるだろうか?。  これは、約束違反ではないか。だいたい、受益者にとって不利益になるような新しい制度を、法施行以前に遡って適用する ということがありえてよいのだろうか?現在大学に在学して教員免許を取得しようと勉強している学生達にも同じ問題が降り かかっている。今年度末までに単位を取得して免許状の交付申請をすれば、その免許は有効期限の付かない「生涯免許状」と なるのだが、留学をしていたり、休学したりしていて、卒業年度が一年延びる学生は、入学時には、「生涯免許状」が取れま すよと約束されていたのに、有効期限月の「新免許状」しかもらえないこととなる。  来年度から、道路交通法が改正され、違反金は倍化されることとなった、ついては、過去の違反者すべてにわたって罰金を 追加徴収するとされたら、しかたがないと誰もが従うのだろうか?それと同じようなことが教師たちにふりかかっている。日 本は、こんなことがまかり通る社会になっている。  日本の教師は、そんなことを問題にするのではなく、予備講習に「あたった!」、「はずれた!」と大騒ぎしている。この 予備講習は、法施行前の"大バーゲン"だ。これも、法施行前に受講該当者に特権(無料、講習受講期間の拡大)を与える点に おいて法運用としては整合性がない。

三 切り捨てられるペーパー・ティチャー

 百歩譲って、「旧免許状」所有者が更新講習を受けねばならないとしても、約610万人もいると推定される人たちに、10年 後ごとに更新講習を提供できる受け皿を設定することは物理的に不可能だ。そこで、文科省は、うち500万人と推定される、い わゆるペーパー・ティチャーを、更新講習受講の受講対象者から除外したのだ。「教職につく意思あり」の表明として都道府 県教育委員会に非常勤講師登録をしているものは、受講対象者とするのだが、免許状をもちながら、会社勤めをしていたり、 家庭にはいっていたり、海外にでかけている人たちは、その免許が自動的に失効させられることになる。  中教審や文科省は、「教師には社会性がないから、社会経験のあるものを教師として任用する道を拡大する」としてきたの だが、こうした政策に反して、社会体験豊かな者は、教職への機会を排除されることになる。文科省は、都道府県教育委員会 に対して、免許が失効しているからといって教員採用試験を受けられないことがないような対応をしろとしているが、夏休み に集中して開講されるであろう更新講習会のほとんどが終了したころに名簿登載の発表があるのが通例だろう。  さらに深刻なのは、「教員免許が取得できます」ということを宣伝にしている私立大学だ。私立大学によっては、さまざま な資格をとるための授業履修は、授業料とは別に1単位あたりいくらというように何万円もの別料金を徴収しているところが多 い。教員免許状取得は、その意味で、将来に向けた投資だ。しかし、そのほとんどが教員採用試験を受けなかったり、受けて も教師になれる可能性の少ないところでは、果たして学生は、やがて「失効してしまう」教員免許の取得に投資をするだろう か?学生にどう説明するか、私立大学の頭の痛いところだ。

四 修了確認期限と受講期間は違う

 「旧免許」保有者の「10年目」をどこで区切るかは厄介な問題だ。免許状取得に必要な単位を大学で修得した年度か、免許 状授与の年度か、あるいは教員採用された年度を起点をするのか、はたまた、複数の免許状をもっている人は、どの免許状を 基準として計算するのか、勤務する都道府県を異動した人は・・・と、起算基準日は設定しにくい。法定10年研修は、採用さ れた年度を起点としていて、当人にも任命権者にも把握しやすい。  そこで文科省が考え出したのが、生年月日を起算日として、満35歳、45歳、55歳の人という基準だ。当初、更新講習の本格 実施の初年度にあたる2009年度に該当年齢になる人が対象と理解され、一喜一憂した人たちがいたのだが、文科省が発表した 「受講対象者の生年月日」一覧表によると、更新講習は、年齢が該当する一年前から受講できるとしているので、例えば、 2009年度と2010年度の更新講習は、2010年度に満35歳、45歳、55歳に達する人が対象となる。つまり、更新講習の期間は2年 間あり、一年目に受講しそこなっても二年目があるという仕組みにされている。  しかし、さらに留意が必要だ。満35歳、34歳、55歳とされている「修了確認期限」は、それまでに講習を受講すればよいと いう期限ではないということだ。該当年齢だが、1年前の2009年度は、学校が忙しくって、希望する更新講習の日程がとれず、 2年目もぼやぼやしているうちに、近場の更新講習会場の応募はすでに満席となってしまったが、インターネットで調べると、 2010年の2月に北海道の大学でまだ開講しているので、経費はかかるが無理してそれを受講しよう・・・というのは、失効して しまうことになる。なぜなら、文科省が指定する「修了確認期限」は、受講者にとってではなく、免許管理者(すなわち、都 道府県教育委員会)にとっての「確認期限」だということだ。年度末には、都道府県教育委員会に、膨大な数の免許状更新申請 が殺到することになる。これには、2ヶ月を要するだろうということで、「免許状更新講習受講期間」は、「修了確認期限」の 2ヶ月前までとされている。すなわち、「平成23年3月31日」が「修了確認期限」の人の「受講期間」は、「平成21年4月1日〜 平成23年1月31日」までなのだ。

五 寝ていられない更新講習

 まず、更新講習の申し込みだが、まだ、大学では検討中でどこもその方式を明らかにしていない。それは、文科省自身がい まだに明確な方向性をだしていないからだ。目下、文科省は、全国の講習メニューを一括してweb上に公開し、ホテルや新幹線 の座席を予約するのと同じようにコンピューター上で申し込みをするシステムを開発中だ。予備講習をweb上で先着順受付方式 を採用したある国立大学には批判が殺到しているようだが、こうしたシステムが採用されれば、情報リテラシーによる格差が 生じるのは当然だ。コンピューター操作が苦手で、ボヤボヤしているうちに、近隣の大学の講習はすべて"満席"ということに だってなりかねない。  免許状更新対象者は、30時間以上の更新講習を受講しなければならないことになっているのだが、現職経験者研修と違って、 出席簿に押印したあと、教室の後ろで寝ていてもいいというわけにはいかない。講師ごとに修了認定試験を受けて合格しなけ ればならない。課題が提示されて来週前にレポートをだしなさいという形式は駄目だとされている。つまり、講習ごとにその 最後の時間は試験だ。寝てなんかいられない。ICレコーダーを持っていって後でゆっくり講義内容を理解しなおそうなんてこ とも無駄だ。連続して30時間を受講しようとすると、朝の9時から昼休みを含んで午後の4時までぶっ通しで参加し、幾つ もの修了認定試験を受け、それを5日間続けなければならない。  学生でもきついこんなスケジュールを55歳の人がこなすのは大変だ。場合によっては、受講料の他に、宿泊ホテル代、交 通費、食事代は全部自己負担だ。人によっては、講習会場近くに宿泊する暑い夏の夜、更新講習の不満をぶちかましながらカ リッと冷えた生ビールを飲まざるを得ないということになる・・・。もちろん、これも自己負担だ。  更新講習の受講料を全国均一や地域で調整することは、「独禁法に抵触する」として強い規制がかけられている。この制度 は、市場の論理で動くものだとされているからだ。だから、講習を開講する予定の大学にとって、受講料をどのように設定す るかは大変難しい。  安い受講料で大量の受講者を獲得し、誰でも合格させますという薄利多売でいくか、学校種・関心別、教科別の充実した講 習を提供するが、その分、高い受講料にするか。周辺大学がどのようなメニューをいくらで提供するのか、これを睨みながら、 赤字をださない"経営"として設計せざるをえないからだ。予備講習を実施したある私立の大学では、講習の中で、「ここは試 験にでますから線を引いておきましょう」という"丁寧な"説明をしてくれたそうだ。さぁ、受講料も質も高く、それだけに修 了認定の基準も高い講習会と、幼稚園の先生も高等学校の先生も同じ内容の授業で、懇切丁寧に試験にでるところを事前に教 えてくれる格安の講習のどちらを受講者は選ぶだろうか?  高い経費を払いながら修了認定不合格になった受講者は、なぜ私は落とされたと抗議するに違いない。来年度から教壇に立 てなくなるからだ。場合によっては、訴訟を起こされるかもしれない。そのときの被告は、文科省でも教育委員会でもなく、 講習担当の講師だ。訴訟を覚悟で、私の講義を理解できないこんなレベルでは、日本の教師として不十分であると勇気を持っ て不合格にする大学教師は多くはあるまい。一体、何のための更新講習なのだろう。もちろん、大学教員には、夏休みがなく なり教育・研究の質は低下する。

六 自分の教員免許状番号を覚えていますか?

 さて、更新講習の試験を全部パスしたら、免許管理者である都道府県教育委員会に、免許状を更新してもらうための申請書 を提出することになるのだが、申請書には、自分のもっている教員免許状の「免許状の番号」を記載しなければならない。自 動車運転免許状の更新では、新しい顔写真を貼り付けた新しい免許状が交付される。しかし、今回の教員免許状の更新という のは、新しい免許状が交付されるわけではない。古い免許状の番号の教員免許状が「あと10年間延長されました」という証明 書が発行されるだけだ。したがって、そこには、当然、古い免許状番号が記載されている。複数の教員免許状をもっている人 は、そのすべての番号が「更新」される。ということは、免許管理者である都道府県教育委員会に、免許更新講習を30時間修 了しましたという証明書に、免許状番号を全部書いておかなければならないということだ。そういう書式が準備されている。  自分の「免許状の番号」をちゃんと覚えているだろうか?複数の免許状を持っている場合は、その全部の番号を。「そんな もの忘れてしまった!」、「免許状はどこにあるかわからない?」という人が多いに違いない。それは、もっともなことだ。 「生涯免許」といわれ、いったん就職したら、「免許状の番号」が問われるということなど想定されていなかったからだ。き っと、全国的に大混乱が起こることだろう。

七 更新講習のキャパシティは保証されるのか?

 ペーパー・ティチャーを除外しても、初年度全国で5万人近い人が毎年更新講習を受けることが想定されている。更新講習の 受講期間は、該当年齢の一年前からだから、二年度からはダブルで受講者が発生することになる。しかし、これだけの更新対 象者に講習会を提供できるキャパシティはとても用意できない。国立大学は、全学出動で講習を開催する構えでいるが、とて も足らない。政府の予算措置はなく、大学は、その経営的な判断において講習会を開催すればよいことになっているので、す べての受講対象者に、それぞれの地域で受講が可能な更新講習を保証する責任は、どこにも存在しない。  文科省は、全国の更新講習メニューをホームページで公開するので、自分で選択できるとするが、北海道の人が、沖縄でま だ空席があるからといって受講にいくだろうか?

八 誰も責任をとらない杜撰な制度

 このように制度設計の杜撰な免許更新制度について、不平や不満を超えて、憤りの声が上がってくるのは当然のことだ。一 体、何をめざした制度なのか?と。誰が一体得するのか???だから、「組合として、受講拒否闘争を呼びかけるべきだ」、 「身分が失われる可能性もあるから、予防訴訟を起こそう」、「大学は、『良識の府』として、なぜ、更新講習を拒否しない のか」・・・などの声も聞かれる。たしかに、一昔前であれば、全国的な大運動が巻き起こってもしかるべき課題であること には違いない。  免許更新制度は、奇妙な法構造になっている。というのも、すべての教員免許所有者が更新講習を受けられる条件整備を図 る義務は、文科省にも教育委員会にも科されていない。講習会を担当する大学にもその責任はない。法が定めるのは、更新講 習を受けなければ、その免許は失効するので、来年度も教員を続けたい意思をもつ先生は、自分の責任と判断において、免許 更新講習を受講し修了認定を受けなければならないということだけだ。つまり、教員免許状を持って教師をしている人が、免 許を失効させたくないと思えば、講習を受けなさいという自己責任の世界で完結している。  忙しくて更新講習を受講できなくて失効してしまった「先生」の処遇はどうなるのだろう。免許「失効」だからといって地 方公務員としての地位まで奪われるわけでなないが、かといって、「県費負担教職員」を一般行政職にまわすことが簡単にで きるわけでもないだろう。こうした問題の労働法・行政法研究は、誰もやったことがない。  教育運動にとって、最優先課題として考えねばならないことは、「失効」した教員の地位保全の問題だ。労働問題として想 定されていないために、また、当然のこととして過去に裁判事例もない事項であるだけに、理論的な先行研究も事例も存在し ない中で、どう地位保全を保障するかは大きな労働問題だ。

九 受講拒否闘争は有効か?

 「日の丸・君が代」処分とは異なって、教師の思想信条にかかわらず強制されるものではなく、不作為が処分の事由にされ るという関係が成立しない構造となっている。仮に、更新講習を受講しないことで免許が失効したとして、教師としての地位 保全の救済措置を裁判所に求めたとしても、それは、かなり困難な闘いになるだろう。なぜなら、訴訟の相手が明確ではなく、 しかも、教師の自由を擁護していた教育基本法は全面改正されている。もちろん、全国的規模で、講習拒否闘争が巻き起こり、 次年度から教壇で立てない教師が大量に生まれるという事態をつくれれば、その社会問題性は、もっと別角度から政治問題化 することはできるだろう。  しかし、孤立した「英雄主義的な」拒否行動は、現下の情勢の中では、あまり意味をなさないように思われる。「自衛隊と 教師の補充はいくらでもいる」といわれるように、免許が失効して教壇に立てなくなった教師の補充にあてられる非常勤講師 は大量に存在する。教員養成系大学・学部の卒業生は、各地の教員需要をはるかに上回っている。ひとりの専任教員分で三名近 い非常勤講師が雇用可能である。それは、教育財政の縮減や少子化に伴う学校統廃合に苦悩する地方自治体の教員「派遣労働 者化」を促進することを加勢するだけのことだろう。ひとりの「英雄主義的」美学は、職員室の教員多層化を一層促進すること になる。したがって、教員は、ここは踏ん張らねばならない。  多くの教師が、更新講習を修了できなくて、あるいは、システムの機能不全によって、翌年度から大量の教師が教壇に立てな いというような社会的混乱が起こりかねない。そうした破綻を待望する声も少なくないが、そうした事態が生じたとき、世論は、 「それは大変だ。学校の先生が大変なことなっている」と教師の味方につくだろうか、それとも、コンピューターで申し込みも できない、修了試験にも合格できないような先生なら要らないというように流れるだろうか。また、様々な問題をはらむこの制 度の実態が明らかになればなるほど、世論の教師バッシングに加え、大分県の教員不正採用問題などとも相まって、教師になろ うという情熱ある若者は少なくなり、優秀な教師は一層減少するだろう。  更新講習が始まれば、これまで指摘したようなさまざまな矛盾は、具体的な教師の不平・不満、教育現場の混乱、大学の疲弊、 システム自体の崩壊などとして露呈するだろう。その実態を集約し、的確な批判分析を行うことを通して、制度の廃止にまで世 論を高めなければならない。しかしながら、今決定的に不足していることは、すべての教師の問題でありながら、すべての教師 が、事柄の複雑さを正確に知らないことだ。特に、幼稚園の先生たちは、教育委員会の管轄下になく、組合も別であって情報が 届きにくい。また、大量のペーパー・ティチャーの問題を考えるのも、教育運動の課題だろう。